No.1 札幌の下町っこ

 私のふるさとは、札幌市中央区南4条西2丁目、国道36線に面した町のど真ん中。いまやその地域はすすきのに吸収され繁華街となっている。わたしがこどもだった頃は、下町という言葉がびったりの風情で、昭和30年代半ば頃までは、商家が立ち並び、子どもたちの遊ぶ声も賑やかだった。

 この町で、こどもの頃に見たり体験した事柄を記憶の深淵に置き去りにしてしまうには寂しい気がして、当時の思い出を書いてみようと思い立った。もちろん、その日常は下町のどこにでもある風景なのだが。今や見かけることも少なくなってしまった。

 わたしはその下町で、一男三女、四人兄妹の末っ子として育った。私が生まれ育った家は格子戸の先に小さな庭のある木造の日本家屋。隣近所には大小の商家が軒を並べ、その店先の商品や商いの様子を見て回ることは、幼児が獲得できる自由時間を過ごすには十分すぎる面白さだった。商売を営むご近所の中にあって、漠然とウチはなにか違うと感じていたように思う。

 その家の内部は、一階に玄関から続く板張りの廊下、仏間、居間、居間のガラス戸の向こうには、妙に広くて細長い台所があった。台所には幅一間ほどの重い引き戸の納戸があり、納戸の中の食べ物やおやつは家長であった祖母が厳しく管理をしていたので、つまみ食いなど到底考えも及ぶものでなかった。二階には洋間と床の間と呼ばれる和室があり、和室の窓から物干し台に出ることができた。階段からつながる踊り場と二階の廊下は、私の自由と空想の空間だった。一方、格子戸と塀に囲まれた庭は小さな冒険公園みたいなもので、物置は子どもたちの秘密基地。ヤマザクラの木には荒縄のブランコを下げ、塀は兄たちがサクランボを取るための足場になった。ライラックや敷石に沿って並ぶ仏壇用の花、雑草、石ころはママゴトの格好な材料となり、色とりどりの食卓にひとり満悦していたように思う。

 この下町の人々や営みにわたしは育てられたような気がする。そして、この小さな家から、「昭和 札幌・薄野 下町ストーリー」が始まる。私たち家族は、昭和48年、町並みの変化と両親の高齢化により引っ越すことになったのだが、当時からいまもその町で商売を営んでいる商家がある。わが家の隣の「星野燃料店」だ。